チェコは、ビールとブラスバンドで
ポルカを
 
スロバキアは、ワインとバイオリンで
チャルダーシユを

 

 

スロバキア国立スルク民族舞踊団

  スロバキア民族の民族舞踊団である国立スルク民族舞踊団を中心に、スロバキアに住むマジャール人の民族舞踊を主とする政府管掌イフユ ・シペック(若い心)民族舞踊団の協力を得た共同制作公演となっています。政府管掌民族舞踊団としては二つあり、もう一つば1972年に来日公演したルチニッツァ民族舞踊団です。スロバキアに住む少数民族ウクライナ人、トイツ人、ジプシーの踊りもレパートリーに含まれ、全ての民族の踊りを公正に配した公演プログラムとなっています。ブラティスラバ近郊で本年1月下句から8回公開されたこの民族舞踊団は、スロバキアの歴史の中で初めての”真のスロバキア民族舞踊団”、”これからのスロバキア自身のあるべき道の指針である”という評価と期待をスロバキア全国へ大きく報道されました。スロバキア全国各地から公演希望か殺到し、日本公演からの帰国後の日程調整におわれています。

 ケルト人の住むこの地に1世紀頃ゲルマン人か移動し、5・6世紀頃にスラブ人が移住し、9世紀に大モラビア帝国が形成され、チェコ(ポヘミアとモラビア)とスロバキアは統一された。10世紀にハンガリーの支配化におかれたスロバキはアポヘミア王国として栄え、14世紀に神聖ローマ帝園、オ一ストリア帝国の支配化に入り全盛期を迎える。第1次世界大戦後チェコスロバキア共和国として再び統一された。1938年ナチスドイツに占領され、45年にソ違によって解放され社会主義化が進められる。社会主義の完成宣言をうたった新憲法が60年に制定された。民主化・自由化を求める声ば68年ビークに違し「プラハの春」といわれた。この運動を恐れたソ違ばワルシヤワ条約軍をもって武カ介入させ、以後民主自由化弾圧の時代に入った。

  89年、東欧の一連の民主化の波とともにプラハの学生デモから民主化運動ば高まり、11月の無血草命にて共産党支配は崩壊、市民フオーラムの八ペルが大統領に選ばれた。90年複数政党制を尊入し、6月の策1回自由通挙で市民勢力が圧勝し、そして92年6月、2回目の総選挙が行なわれた。スロバキアでは独立と経済改革の緩和を旗印とする民主スロバキア違勤(HZDS‐党首メチアル)が勝利した。8月、ブルノで開かれたクラウス・チユコ、メチアル・スロバキア両共和国首相会談で、チェコおよびスロバキア連邦共和国は本年(1993年)1月1日より独立と決まった。
  チェコスロバキアの連邦解体は良織ある「協講離婚」となった。しかし、南のスラブ人違の連邦共和国、ユーゴスラビアは永くヨーロヅパであった国とパルカンであった国の結婚、またセルビア正教・カトリック・イスラム教の国の結婚、母国語と文字の違う国の無理な結婚であり、ぞの連邦解体は血で血を洗う「決裂離婚」となった。

  フォークロールレポーター 増永哲男       

 

ドクルトゥのメロディ

    7年前の春(1985年)、私はてっちゃん(増水哲男氏を私達は通称そう呼んでいる)に相談をもちかけました。「日本ではたくさんのフォ一クダンスか踊られているが、フオ一クロアが豊富なのにあまり紹介されていない国はどこだろうか?」てっちやんは「それはトランシルバニアとスロバキアです」と直ぐ答えてくれました。「将来にわたって指導を受けられる有能な指導者は?」「スロバキアにバルガ・エルビン氏かいます」と。そして、てっちやんの即実行の紹介により 、その年の秋、バルガ氏の来日指導を実現させました。彼は一度に何曲も教える指導者とは違いドクルトウとチヤルダシユだけをたっぷりと時間をかけて教えました。一つ一つの踊りを大事に、厳しく教える氏の踊りに対する姿勢と、ドクルトウを最初に教えた深慮ある人柄(スロバキア国歌のメロディはドクルトウのメロディであることを暗に知らしめたように)とスロバキアの踊りの奥の深さに真に魅せられ、以後毎年指導を受けています。そのバルガ氏かスロバキア国立民族舞踊団のコレオグラフアーの一人として来日され、私達の習った踊りが目の前でくりひろげられることに喜びをかくしきれません。また日本全国の人達がスロバキアの踊りの素晴らしさに、諸手を上げて拍手喝采されることを確信しています。最後に増水氏はじめ各公演関係各位のご尽力に対し心から敬意を表するとともに、公演のご成功をお祈り申し上げます。

(社)日本フォークダンス連盟顧問,御徒町フォークダンス研究会 会長 佐野政治

 

踊りと踊り手違の魂の攻防

    踊りに気持というものを考えたことがおありだろうか?踊る時の気持ではない、踊る人の気持でもない、「踊り」そのものが持っている意志のようなものである。こんな事を言ったら笑われるかもしれないし、「踊った事」の無い人には断じて解らない事だろうけれど・・・。踊る時、あるいは踊りを見るとき、その踊りがどの様に踊って欲しがっているか感じる、という事だ。「それはそうだ」とある人達は言うかもしれない。振付けにしたってセ才リーというものがあるし、ましてあなたの(私の)やっているフォークダンス民俗舞踊というものは、実際地元でどう踊られているか、という事があって、その知識から外れたとき「違う」という声か間こえるのはあたりまえだ・・と。ここで私は「そうではない」というのはお預けにして・・。「それならそのセ才り一はどこからきたの?」「何で地元でそんな風に踊られているの?」と間うことにしたい。仮に一人の確立したセ才リーにしても、それが踊りの意志を 汲んだものでなければ多くの人々に支持されるだろうか。時代と共に変化したにしても、多くの人々に踊り継がれているフォークダンスにないと言えるのか?いや、その変化こそその踊りの持つ意志なのではなかろうか?踊りの意志と、いや、魂と時には争い、時にはいつくしみ合いながら、一方的にならず、しかも、ほどほどに・・なんて事でなく真剣につき合っていく、という事か「踊る」という事なのだと思う。踊り手の意志か無ければ踊りではないし、踊りぞのものの意志が感じられないのも、それは踊りとは言えないのではないか?踊りと踊り手違の魂の攻防、ハーモニーの感じられるスロバキア国立民族舞踊団の舞台に期待したい。

民俗舞踊研究家 先崎宏伸

 

ボス 増永哲男

  今回の公演のディレクター増永哲男はビデオテクニカの代表であり、文字どおり我々のボスである。彼を一言で絡介するのは不可能だが、あえていうなら「とにかく非常に強烈な個性の持ち主』である。あまりにも強烈な主義主張を持っている為に摩擦を生じる事もあるが、一度理解されればとことん共感をもたれるタイプである。時に理解するのが非常に困難なことがあるのも事実だが、ここにには書けない。

  今でこそ東欧諸国は自由化が進み、社会主義時代に比ぺれば訪間する事はかなり、いや非常に楽になった。しかしつい数年前までば西側諸国のジヤーナリストにば閉ざざされた門であった 。チャウシェスク政権下のルーマニアで、少数民族の村々をまわって撮影を続けている不審な外国人として秘密警察の尋問取り調べを受けた話などは何度聞いても冷や汗ものである。そのチャウシェスク政権が倒された時も増永ばいつものようにクリスマスの取材のためトランシルバニアの村の中にいた。村人と共に流血草命を内側から見つめていた 。新聞記者もテレビカメラも事件が起きた後に取材に出かける。日本でもずいぶんと報道されたが当然どれも今一つビンとこなかった。しかし彼らの生の声を聞いていたボスからの話からは、マスコミの報道などからは想像もつかない諸問題の裏の顔を知ることができた。もっともこの時期ばかりは徹夜で二ユース番組を見続けてボスの安否を気遣わねばならなかったが・……。

  ぞれほどまでして東欧緒国へ通い続けてオリジナルの民族舞踊を求めて取材記録を続けている。何のために。三度のメシより好きな本物の踊りがそこにあり、そしてそのすばらしい踊りを毎日の生活の一部として暮らしている愛すぺき人たちがいるから。イースター、結婚式、クリスマスから新年にかけてと村の人々が踊りに打ち興じる時期、ボスの姿は日本には見られない,毎冬雪と氷の道を村から村へと車を走らせて新年を迎える。あたかも村人の一人であるかのように何の違和感も無く人々の間に溶けこんでいる彼の姿に永年の実績とその重みを感じる。

  7、8、9月とステージ・レポート部門は国内の発表会シーズンでてんてこまい。クラシヅクバレェ、モダンバレェ、ジヤズ・ダンスに日本舞踊と我々留守チームが日本でステージ舞踊の撮影に編集にと追い回されている頃、我らがボスは一人悠々とハンガリーにスロバキア、ユーゴスラビアにギリシヤ、ポーランドとフオ一クロールフエステイパルを撮影し 、その間にトランシルバニアの村々に遊ぶ。そして我々ば大好きなフオークロア・ダンスに関する土産話を首を長くして待ち続けるのだ。

  こうした長年の積み童ねの中で現地の村の人々と親交を深め、その踊りに魅了され数多くのプロフェツショナルの舞踊団、そして優秀なアマチュアのグループやそのディレクター、コレオグラファーたちと知り合い、ついに昨年(1992年1月)のルーマニア国立トランシルバニア民族舞踊団の日本公演を実現させた,

  現地の優秀な舞踊団による、できる限り村の踊りに近いステージを 、日本の舞踊愛好者の方々に生のステージで見ていただきたいというフォークロールレポートの新たな活動のスタートである。既成の舞踊団のステージ・バレェ化されたプログラムを日本にもってくるのでは気が済まず、複数の舞踊団から優秀なメンパーを集めて新たに来日公演舞踊団を作ってしまう。既成プログラムの中の不適当な部分を片っ端から措摘して、極カ村のオリジナルに近い形の踊りに構成し直させる。こんなにうるさい招聘責任者はいまだかつて見たことも聞いたこともない。その作業の底に流れている「村の踊りへの限りなき熱い思い』と、現地の舞踊関係者をも納得させてしまう知識の豊富さに改めて敬服させられる。

  スロバキア国立民族舞踊団の日本公演に先立って公開された当地での試演公演はその全体構成の完成度が非常に高いことに対して政府、報道、舞踊関係者に絶賛された。その構成シナリオを書いたのは我がボス増永であることはいうまでもない。皆さんにも理屈抜きで楽しみ、そして感動して項けるものと信じて疑わない。お話ししたい裏話は星の数ほどありすぎるので機会を改めることにしよう。ただ一つだけ、ボスを筆頭にスタッフー同踊りをこよなく愛し、踊りが好きで好きでたまらないがゆえの踊りの撮影であり、それが高じての舞踊団の来日招聘であることをご理解いたたければ幸いである。

株式会社ビデオテクニカ 小林岳丸

プログラム

1)ゼンプリンの踊り

『私のために音楽を!つぼみが花ひらくように、木々はもっと縁になるように。私のために音楽を!私ばたくさん踊りたい、体が自然に踊ってしまう』、東スロバキア、ゼンプリン地方パルホパ二村の軽快な唄と音楽にのって幕があきます。

2)ドクルトゥとチヤルダシュ

東スロバキアには哀調のある美しいメロディ、それはドクルトウです。スロバキア国欧もこのドクルトウからのメロディです。結婚式の花嫁のお別れにばよく唄われ踊られます。シユビーシユ地方マルゲツァニ村のドクルトウとゼンプリン地方ポジショブツェ村のチヤルダシユです。

3)チャロクズの踊り

ハンガリー小平原チャロクズ地方はドナウ川の北部にあり肥沃な土地に世界有数の穀倉地帯を誇り、数多くのハンガリー人村かあります。その中のヨーカ村では独特のペルトーケペルフンクが見られます。

4)ルシン(ウクライナ人)の踊り

東スロバキアの北部、セペルニシャリシエ地方にウクライナ語を話す人達が住んでいます。現地では「私達はウクライナ人ではない、ルシン人だ」と言っています。ドゥルンブラ(口琴)のリズムとシンプルなメロディが特徴的。

5)トレンチンの踊り

西スロバキアトレンチン地方クブラ村の踊り。男達はどれだけ高く、どれだけ長い間、女性を持ち上げられるか競い合います。意気のあった男女3組の妙味をお楽しみください。

6)リプトフのオぜモク

オゼモクは中央スロバキアから東スロバキアにかけての牧夫達の踊りの総称です。踊りの型ばなく自分自身の誇りのため体力・技術を披露自慢しあいます。ここでは北部スロバキアのリプトフ地方ヤノシックのオゼモクです。

7)テコフの女性踊り

スロバキアとハンガリーの国境を流れるドナウ川のから支流フロン川に沿って60km上流あたりにテコフの名が付く町や村が多く見られます。金糸銀糸の帽子と歯切れのよい踊りが印象的。四っの恋唄のメドレーで 展開します。

8)ジプシーの踊り

スロバキア・ウクライナ・ハンガリーの三国が国境を接するポドウルクウズ・二一ルシェーギ・サトウマーレ地方には素晴らしいジプシーの踊りが見られます。カポシャンスケクレチャニ(カポシユケレチェニ)村のハンガリー系ジプシーの踊り。手拍子口拍子でリズムをとりあい、踊り手たちは即興で踊ります。

9)ベイのチャルダシュ

東スロバキア南ゼンブリン地方、ポドゥル川とティサ川の間、ハンガリ国境近くのペイ村のラッシユ(ゆっくりしたテンポの)チャルダシュとフリッシュ(早いテンポの)チャルダシュ

10)ゴラルの踊り

スロバキアで一番高いタトラ山(2655m)、ポーランドと国境を接するオラバ(西タドラ)地方の オズポニ、クレシャニ、ドロボニの三つの踊りから構成されています。タトラの透き通った情景を描く昔楽にのせて、険しいタドラ山の気流と遊ぶ勇壮な鷲と、麓のばにかみやの娘を連想させる素晴らしい踊りです。ステップの細かさと早さ、フィギュアの優雅さに圧倒されます。

−−−−−− 休 憩 −−−−−−−−

11)シャリシュの踊り

東スロバキア・シヤリシユ地方を代表する二つの踊り、クルチェナとポルカを二つのグルーブか競います。

12)ミヤバの踊り

数キロで隣国のチェコ(モラビア)と接するミヤバは西スロバキアのフォクロールフェスティバル会場としても有名です。コスチュームにスロバキア全土で見られる 刺繍はありませんが、気品ある青と白がこの踊りを引き立たせています。女性が男性に片足を預けるのは靴の修理をお順いするシューメーカーズダンスの名残です。

13)春の踊り(ヤルネホロボディ)

ホント地方フルショフ村の少女達の春(ヤルネ)の遊び離り(ホロボディ)です。長く寒い冬(悪の精)を少女たちは山や川へ捨てに行きます。そして、明るく暖かい春の到来を祝います‘

14)ゼンプリンの二つのベルブンク

前述(9)ペイ村のマジャールペルフンクと北ゼンプリン地方ドゥルヘクルチョボ村のスロバキアペルフンク(チフロバニとチェルカニ)の見事な競演。

15)ゲメルの踊り

ハンガリーとの国境に沿ってゲメル(グムル)地方は位置しています。カライ、棒の踊り、カポゴシユで構成されています。

16)ドイツ人の踊り

中央スロバキア、バンスカビストリッツァの近くポラナ山(1458M)の北の麓にドイツ人材ルビエトパがあります。トイツ人の多くは職業技術を持って移住することが多く、ここではワイン樽のタガを持って踊ります。ビングータンツ、ショティシュ、レンドラーがみられます。

17)オチョバの踊り

ポラナ山の南の麓にポドポラニエ地方を古くから代表するオチョパ村があり、手を柔らかく使いながら踊るのが特徴です。バラニ、シヤトコピ(ハンカチ)、自分の曲をリクエストするロズカゾパチキで構成されています。この村のオリジナルなコスチュームはスロバキアを代表する美しいコスチュームのひとつです。

18)ジェトバの踊り

・・・ポドポラニエ山麓に住む羊飼いたちは仕事の合間に自分で作った背丈ほどの長い笛(フヤう)を吹いて楽しみます。フヤラの音色は山麓に,響きわたり、耳を澄ませば、赤白黄の色群やかなコスチュームの娘達が静かにこちらに向ってきます。そして羊飼いの若者と出会います・・・。チフロパチキ、ヴァラ二、タニエロピで構成されたこの離りは1959年ユライ・クパンカによって振付けされ、以来スルクのシンポル的レパートリ ーとなっています。

プログラム

1)ゼンプリンの踊り  

『私のために音楽を!つぼみが花ひらくように、木々はもっと縁になるように。私のために音楽を!私 はたくさん踊りたい、体が自然に踊ってしまう』、東スロバキア、ゼンプリン地方パルホパ二村の軽快な唄と音楽にのって幕があきます。


2)ボシュドラグ

東スロバキア・ゼンプリン地方、数キロでウクライナとの国境になるクリスティ村の踊り。

3)チャーロクズの踊り  

ハンガリー小平原チャロクズ地方はドナウ川の北部にあり肥沃な土地に世界有数の穀倉地帯を誇り、数多くのハンガリー人村 があります。その中のヨーカ村では独特のペルトーケペルフンクが見られます。


4)ルシンの踊り     (Aプロ参照)

東スロバキアの北部、セペルニシャリシエ地方にウクライナ語を話す人達が住んでいます。現地では「私達はウクライナ人ではない、ルシン人だ」と言っています。ドゥルンブラ(口琴)のリズムとシンプルなメロディが特徴的。


5)トレンチンの踊り 

西スロバキアトレンチン地方クブラ村の踊り。男達はどれだけ高く、どれだけ長い間、女性を持ち上げられるか競い合います。意気のあった男女3組の妙味をお楽しみください。

6)リプトフの踊り   

オゼモクは中央スロバキアから東スロバキアにかけての牧夫達の踊りの総称です。踊りの型ばなく自分自身の誇りのため体力・技術を披露自慢しあいます。ここでは北部スロバキアのリプトフ地方ヤノシックのオゼモクです。

7)テコフの女性の踊り  

スロバキアとハンガリーの国境を流れるドナウ川のから支流フロン川に沿って60km上流あたりにテコフの名が付く町や村が多く見られます。金糸銀糸の帽子と歯切れのよい踊りが印象的。四っの恋唄のメドレーで 展開します。

8)ジプシーの踊り     

スロバキア・ウクライナ・ハンガリーの三国が国境を接するポドウルクウズ・二一ルシェーギ・サトウマーレ地方には素晴らしいジプシーの踊りが見られます。カポシャンスケクレチャニ(カポシユケレチェニ)村のハンガリー系ジプシーの踊り。手拍子口拍子でリズムをとりあい、踊り手たちは即興で踊ります。

9)音楽溝奏

10)ゴラルの踊り    

スロバキアで一番高いタドラ山(2655m)、ポーランドと国境を接するオラバ(西タドラ)地方の オズポニ、クレシャニ、ドロボニの三つの踊りから構成されています。タトラの透き通った情景を描く昔楽にのせて、険しいタドラ山の気流と遊ぶ勇壮な鷲と、麓のばにかみやの娘を連想させる素晴らしい踊りです。ステップの細かさと早さ、フィギュアの優雅さに圧倒されます

−−−− 休  憩 −−−−−−

11)マルトフの踊り

ドナウ川の支流ニトラ川に沿って15KMにマルトフ(ハンガリー名マルトシュ)村かあります。結婚式の踊りがメドレ一でラコダロミ、アルギェルシユ、ブコシユ、ペルブンクと続きます。

12)ミヤバの踊り    

数キロで離のチェコ(モラビア)と接するミヤバは西スロバキアのフォクロールフェスティバル会場としても有名です。コスチュームにスロバキア全土で見られる 刺繍はありませんが、気品ある青と白がこの踊りを引き立たせています。女性が男性に片足を預けるのは靴の修理をお順いするシューメーカーズダンスの名残です。

13)ナヤナ

中央スロバキア・ホレホロン地方へルパ村の遊び踊りを基にコレオグラフされています。聖ヤンスケの日(夏至6月24日)真夜中に村人は集まり、娘達 が火を飛び越す儀式が行なわれ、自らの女性としての幸福を祈願します。花輪のコソル(娘のシンポル)を投げ捨てるのは健康な体で早くお嫁に行けるようにとの思いが込められています。

14)コニャレ

束スロバキア・シヤリシユ地方ヴィシュネ・ラスラヴィチェ村の男の遊び踊り。馬の手綱を引ぎながら駆け回り、遠びます。肩車でのペルブンクにも挑戦します。ツェペルカ、パシストプスカ、クリクリクで構成されています。

15)カリチカとカリカーゾ

束スロバキア・センプリン地方の女性の踊り。イムレグ村のカリカーゾとザルジチ村のカリチカ。カリカーゾとカリチカは女性の輪踊りを意味し、前者かマジャール(ハンガリー)語、後者かスロバキア語です。コレ オグラファー、バルガ・エルビン氏はこのイムレグ村で生まれました。

16)オセベ

北スロバキア、タドラの南西に位置するリプトフ地方リプトフスキ・スリアッチ村からのカップルダンス。オセペを踊っている最中に、館に住む貴族の踊り(ポパンスキー)を真似してみます。

17)オチョバの踊り

ポラナ山の南の麓にポドポラニエ地方を古くから代表するオチョパ村があり、手を柔らかく使いながら踊るのが特徴です。バラニ、シヤトコピ(ハンカチ)、自分の曲をリクエストするロズカゾパチキで構成されています。この村のオリジナルなコスチュームはスロバキアを代表する美しいコスチュームのひとつです。

18)ジェトバの踊り

・・・ポドポラニエ山麓に住む羊飼いたちは仕事の合間に自分で作った背丈ほどの長い笛(フヤう)を吹いて楽しみます。フヤラの音色は山麓に,響きわたり、耳を澄ませば、赤白黄の色群やかなコスチュームの娘達が静かにこちらに向ってきます。そして羊飼いの若者と出会います・・・。チフロパチキ、ヴァラ二、タニエロピで構成されたこの離りは1959年ユライ・クパンカによって振付けされ、以来スルクのシンポル的レパートリ ーとなっています。

 

スロバキアの主な民族舞踊
1)ペルブンク:オ一ストリア・ハンガリー帝国時代の兵隊リクルーティングダンスから派生した男性の踊り
2)カリチカ=女性の輪踊りはハンガリーのカリカーゾ一と同義語
3)チヤルダシユ:中央スロバキアではお皿を拭くように右左と女性を回すためタニエロビ(皿)と呼ぶ村もある.
以上三っはハンガリーの踊りと共有するがスロバキアのそれは軽快、女性のしぐさの可憐さに大きな特徴か見られる。

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